『備陽六郡志』に「笠岡街道の北に小き藪あり其内に荒神社ありこの邊寛文の頃まで大沼なりけるか如何なる大水にてもこの藪は水面に浮み出づること恰も汁鍋の蓋の如くありしかはかく名附けしと」とある。
約三十年前、区画整理のため移転されましたが、以前は川を隔てて約五十米ほど西側の、昔の広い川沿いに立っていました。
蔵王常夜燈と呼ばれています。
『土屋日記』には「人足は五ヶ沼(市村・深津・吉田・引野・手城)より寄進として出す(都合二百五十人)」
建立年の正月二五日「晴天、石工丈助伜吉兵衛参り、笠石を江戸まきろくろにて上に釣り上げ置く。同夜雨降る」と建立の経緯が詳細されています。